2012年、01月14日の17時頃、愛ちゃんは天国に旅立ちました。 15歳と6ヶ月でした。 ― はじめまして。 出逢いは私が5歳か6歳の頃。
当時、母親が交際していた男性の姉の飼っている犬が3匹の子犬を産み、その中の1匹を引き取ることになった。 当時、既に家には中型犬でハスキーと雑種のミックスで左目が青色、右目が茶色のルナという犬がいた。
そのルナとは違い、シーズーという小型犬の子犬をもらうことになったのだ。 もらいに、その人の家に行けば小さくてコロコロして可愛い子犬3匹がそこにいた。
既に子犬は名前は付けられていて、その中でも一番、小さくて大人しい女の子の「愛ちゃん」を家族に迎えた。 ― よろしくね。 まだ乳離れができてない、が、あと少しで乳離れが出来る時期の愛ちゃん。
歩く足もおぼつかず、よく転びそうになっている姿をまだ覚えている。 子犬らしいチャカチャカも、やんちゃさもほとんどなくこの頃から恐ろしくマイペースでいつも寝ている子。
おっとりしていて、のんびりふわふわと一日を過ごしているのが彼女の日常だった。 そのほんわかな雰囲気と愛らしい姿に私たちは癒されるのでした。
― 最初の事件。 愛ちゃんが4歳の頃、私が一人で近くの公園で愛ちゃんを散歩させている時のこと。
その公園の真横にある家から一頭の犬が飛び出してきて、その犬は愛ちゃんをめがけ走ってきた。 そして、突然、愛ちゃんはその犬に襲われてしまった。
首を噛まれ、噛んでいる犬も中々放してくれず慌ててやってきたその飼い主は自分の犬を抱きかかえると、噛まれたままの愛ちゃんは宙ぶらりんになってしまい、響く悲鳴。
初めて聴く、愛ちゃんの悲鳴でした。今でもこの事件は衝撃的でよく覚えています。 やっと放してくれてかけよれば、愛ちゃんの首から血が。
よく見てみると皮膚が破れ、下の肉が見えてしまっている状態。 襲ってきた犬の飼い主は大慌てで、私と愛ちゃんを早急に車に乗せ、一番近くの動物病院へ連れて行ってもらった。
― 動物病院。 そこへ駆け込むとすぐさま治療をしてもらえた。もちろん費用は襲ってきた犬の飼い主だ。
それからも完治をするまで向こうの費用持ちでその動物病院さんへ通った。 これがこれから愛ちゃんが亡くなるまで10年以上もの間、お世話になる「たなはし動物病院」との出逢いだった。
院長さんはとても優しく、穏やかな口調の、丁寧な男の先生だった。 診察は院長先生一人が行っていて、数人の助手さんがいる小さな病院だったけれど、先生の穏やかさがにじみ出た院内はいつだって穏やかな空気が流れていてとても安心できた。 それ以来、何かあれば、たなはし動物病院さんに通うことになった。
― 失明。 愛ちゃんが6歳の頃、左目が突然、白くなった。
たなはし動物病院に行けば、目に傷が入ったらしく緑内障になっていると診断された。 しばらくの治療も虚しく、網膜剥離を起こし、白内障に進展し、愛ちゃんの左目は完全に失明してしまった。 最初の頃は散歩の時に左側をぶつけたりしていたけれど、日々を重ねるにつれ慣れたようだった。
溺愛していた私たちは愛ちゃんに「ちゅー」をしすぎて、「ちゅー」嫌いになってしまい顔を避けるようになっていたので、ここぞとばかりにわざと左側から「ちゅー」をしてやったり、とうまく楽しく過ごしていた。 ― ひとり。 母が交際していた男性の子を身ごもり、産むはずだったのだが妊娠6ヶ月で流産した。
そして私までも病を患ったりと色々なことが重なり、母の精神状態が不安定になり、母は躁鬱病になった。 そして外で飼っていたルナを近所のおばさんがやたらと構うようになり、いつしかルナが一人になるたびに鳴くようになり、近所からは苦情が寄せられた。 そのルナの鳴く声に耐えかねた母は、ルナを繋ぐリードを外してしまい、ルナは喜んで走り去っていったそうだ。
ルナは、私が初めて自分で名前を付けた犬で、私にとって分身の存在だった。 当時、愛ちゃんよりルナのほうを可愛がっていたぐらいでいなくなったことを私は学校から帰ってきて、からっぽになっていた犬小屋を見て気付いたのだ。 母を責めることもできず、けれども心の中で、母を責めた。
そして家の中に悠々といる、愛ちゃんを責めた、恨んだ。 ルナと愛ちゃんはとても仲良しだった。毎日の散歩も一緒で、近くの公園でリードを放せば走り回るルナの後ろをいつも必死で走って追いかけているのが愛ちゃん。
私が一人で二匹を公園に散歩に連れて行き、気付いたら二匹とも公園にいなくて探しまわったら二匹一緒に行動していたらしく、以前住んでいた家に二匹一緒にそこにいたこともあった。 ルナがいなくなって、散歩は愛ちゃんひとりになった。
ルナへ向かうはずだった私の愛情も、愛ちゃんだけに向かった。 ルナは探しても探しても見つからず、待っても待ってもそれからずっと帰ることはなかった。
小学生の私は、この頃から将来は動物に関する仕事がしたいと夢を見ていた。
たくさんの本を買い与えてもらい、この頃には犬のカタログを読み漁り、100種類以上の犬種を覚えた。 ― さんにん。 冒頭に出てきた母の交際相手とはあまりに長い時を一緒に過ごしたために、私にとっては血は繋がらなくとも父親という存在で、家でも叱り役、まとめ役がその人だった。
籍は入れてなかったものの、彼の存在は本当に家族、というものだった。 愛ちゃんにとっても一番のリーダーで、従い、そして一番信頼できる人だったと思う。 しかし私が思春期に入る頃、その彼との仲は険悪になった。いわゆる、父親への嫌悪感、反抗期だ。
その真っ只中、最期の会話も思い出せないまま、彼は突然、車の事故で亡くなった。即死だった。 我が家に、リーダーがいなくなった。私たちは母、私、愛ちゃん、の3人家族になった。 この頃になると犬のカタログから、犬の病気やしつけの本を読み漁りはじめた。
大体の育て方の基礎、しつけの基礎や、よくある病気のことは理解していた。 ― さまざまな病気。 溺愛するあまり、犬の精神病、分離不安症というものに愛ちゃんがなった。
家を留守にすると決まった場所でしていた排泄をしない、悪さばかりする、鳴き叫ぶ、などの症状。 酷い時は玄関のドアをひっかきすぎて爪から大量に出血して家中が血だらけの時もあった。 ふと気付くとお腹が垂れさがっていたり、水を飲む量がとても多いことに気付いた。
不審に思った私たちはたなはし動物病院に連れていくとホルモン系の病気「クッシング症候群」という病を患っていることが判明した。完治はしないそうだ。 体重も増え、ダイエットを試みるが、何せ愛ちゃんには甘い。
欲しがるものは何でも与えてしまっていた。 ― シニア。 散歩を嫌がるようになった。毎日、欠かさず散歩をしていた。
決まって夜の21時頃、自分で自分のリードを加えてもってきて散歩に連れていけとせがんでいた子が、歩くのを嫌がり、また普段から寝ることの多かった子が、さらに寝る時間が増えた。 けれども、嫌がっても散歩は毎日欠かさなかった。
愛ちゃんも年を取ったのだ。
ドックフードにも気を使った。シニアのもの、低脂肪なもの、栄養のよいもの。 ― 重病。 病気ともうまく付き合いながら、小さな事件もありながらもなんとか過ごしていた2008年元旦。
母の異常な声で起きると、母が「愛ちゃんが息してない!」と叫んでいた。 駆け寄ると本当に息が止まっていて、そして失禁。 パニックになる母を見て、自分は冷静に対処しようと読んで覚えた、心臓マッサージ、そして人工呼吸を繰り返した。すぐ、息を吹き返してくれた。
すぐさまたなはし動物病院に駆け込んだ。たなはし動物病院は救急でも診てくれるのだ。
病院で診察してもらう頃には愛ちゃんの意識もはっきりしていて、元気になっていた。
けれど診察の結果、息が止まった原因は突然の心臓発作で、更に心臓病を患っていることが判明した。 心臓の弁の病気、僧帽弁閉鎖不全症。 心臓の弁が変性して、血液が逆流する病気で、また更には片方の部屋の弁がいつ取れてもおかしくない状態だと言われた。 その弁が取れたら、もう助からない。 心臓病との戦いも始まった。
― 闘病と手術。 気付いたら愛ちゃんが飲む薬がどんどん増えた。3種類、4種類。
そして脾臓が肥大して臓器を圧迫しているために、高齢での手術が行われた。 高齢のため、リスクは高かった。 手術は成功。そして手術中に異常がわかった卵巣も取り除かれた。
無事、目も覚ましてくれて手術は終わった。経過も良好。 それから数年、今度は尿道に大きな結石があると言われ、これが最期の手術ということで結石を取る手術をした。
かなりの高齢、目覚めないかもしれないという恐怖の中、手術は無事成功した。 ある日には、突然、悲鳴をあげて、それはもう悲痛な叫び。
深夜、いつものようにたなはし動物病院に連絡をしたのだが全然繋がらず、色んな動物病院を探しまわり、一軒の動物病院さんが受け入れてくれるということで急いでその病院に向かった。 そこはじいさんとばあさんが夫婦でやっている病院っぽかった。
じいさんは痛がる愛ちゃんの顎をがしがしといじりまくり、治療と言えば原液のイソジンを口の中に塗りたくっただけの見るからに適当な治療に見えた。 また痛がる愛ちゃんに、声もかけない。さすがに私たちはその先生に怒ったほどだった。
その病院ではそれだけの治療に関わらず、多額の治療費を請求された。 診断結果は、歯が痛いだけだろう、ということだった。 いつもかかっている病院はどこですか?と聞かれ、たなはしさんです、と言えばその病院の悪口まで言い出したのだ。 二度と、この病院にはこない。そして潰れてしまえ、と私たちは思った。
その病院から出ると、たなはし先生から連絡がきた。
すぐさま、たなはし動物病院へ行き、見てもらうと顎の骨にヒビが入っていることがわかった。 あの病院は、それも見抜けず、ましてやヒビが入っている顎を触りまくったのだ。 心底、あの病院に行くんじゃなかったと、私たちは後悔した。 そして、それ以来、どんなことがあってもたはなし動物病院で見てもらおうと心に決めたのだった。 顎の骨のヒビの原因は歯周病の悪化によるものだった。歯ぐきが溶け、骨まで溶かしていた。
治療するには手術しかないのだが、もう手術の出来る身体ではなかったために見守るしかなかった。 うまくそのままくっついてくれることを祈るばかり。 見守った結果、うまく固まってくれたようで、本人に痛みもないようだった。
しかし、食事は折れていない左の奥歯で噛むようになり少し食べずらそうだった。 ― 老化。 次第に、立ち上がることも困難になった。前足の腕は変な形で固まってしまい、横に広がる形になった。
犬には鎖骨がないそうだ。見る分にはとても痛そうではあるのだが、本人はもうそれが楽な体勢らしい。 立ちあがることが出来ないもどかしさが伝わってきて、立てないままもがいている状態が多かった。 一度立ってしまえば、なんとか歩くことはできたために、立ちあがらせることを行っていた。
しかし、それもつかの間、前足が弱くなって立ちあがってもすぐ転ぶようになった。
支えなしでは歩けない、そんな状態だったが歩きたい衝動があるらしくひたすらもがくようになった。 自分で出来ていた、食事、水が自分では何もできなくなった。
私たちは愛ちゃんに常に気を払い、食事がしたいサイン、水が飲みたいサインを読み取るのに必死になった。 就寝後、朝方にもがくようになり、その度に起きては、空腹のサインか水のサインかを読み取って迅速にその欲求を満たしてあげる日々が続いた。
歯も抜けはじめてしまい、噛む力も衰え始めたので食事も赤ちゃん用の小さなスプーンで直接、口に運んであげる形になった。硬いフードからやわらかいフードにも変わった。
― 介護。 排泄だけは微妙な変化で読みとることが出来ていて、いつも排泄をする場所に連れて行けばちゃんと自力で排泄ができていたのが、気付いたら排泄していることが増え、おむつがかかせなくなった。
おむつも、排泄したのに気付いてあげられず放置しておくと肌が酷くかぶれてしまうので要注意だった。 すると今度は自力で出せていた排便も、力む力が弱まって、自分で排便もできなくなった。
その度に、肛門が膨らむと肛門を押して、便を無理やり出させる事もやらなくてはならなくなった。 食事もやわらかいフードも噛めなくなってきた。
色んなドックフードを探し、シリアルのようなものを発見した。 それはそのまま与えてもよい、犬用の牛乳やお水でふやかしてあげてもよいものだった。 犬用の牛乳でふやかし、まるで離乳食のようなものが食事になった。
この頃になると何かしたい欲求を声で発するようになり、何かあれば鳴く、というのが増えた。 ― 最期。 何かあれば声を発していたのだが、起きている時はひたすら鳴くという現象が始まった。
それはもう常に、そして鳴き叫ぶような声で、ずっとずっと、鳴くのだ。 何をしても鳴きやまない、どうしても鳴きやまない、夜も寝ない、そんな日々が続いた。 診察をしてもらえば、不安や寂しさもあるだろうが、一種のボケ、という診断だった。
なんとか耐えるしかなかった。 ある日、突然、全く食べなくなった。水も飲まなくなった。
2日間、様子を見ていた時、唯一折れずにいた左の顎の骨も、折れてしまったようだった。 両顎が折れてしまい、下顎はもう閉じることができず、肉でぶら下がった状態になった。
食事もできなくなり、鼻からチューブを通して、直接胃につなげた。 そしてそのチューブから流動力を与える、というところまで至った。 相変わらず、夜も寝ず、酷い時は徹夜するが多くなり、私たちの身体が限界になった。
動物病院の先生に相談すると、とても親身に聞いてくれて、最善の方法を考えた。 結論は、愛ちゃんに精神安定剤を使う、というものだった。
あまりに鳴き方が酷い時、そして夜。 愛ちゃんも鳴き続けて寝てない、だから夜は寝かせてあげようということだ。 それで私たちも夜はある程度、眠れるようになった。 安定剤が効いている間は、大人しくて気持ちよさそうに眠っていた。穏やかな時間だった。 そして、その数日後。
私と母が抱きあげて、見守る中、愛ちゃんは天国へ旅立った。
1月14日、17時頃のことだった。 まだ暖かい愛ちゃんを、もう動かない愛ちゃんを抱いて、お世話になった動物病院へ向かった。
鼻にあるチューブを、取ってもらい、身体も綺麗にしてもらった。 10年以上もお世話になった動物病院は、助手さんのみなさんとも仲良くなっていて、もうこれから来ることがなくなるのかと思うと、ものすごい寂しさが襲った。 愛ちゃんが、いなくなるということはこういった繋がりも薄くなるということだった。
院長さんにも挨拶を交わし、家に帰った。 翌日、愛ちゃんの冷たくなった身体を、お気に入りだった寝床へ寝かせ、一日を一緒に過ごした。
そのまた翌日、ペット専門の霊園を訪ね、丁寧に火葬をしていただいた。 そこは個別に火葬してくれて、骨も拾わせてくれるところだった。 骨の一部を入れておけるキーホルダーと毛を挟んでおけるお守りもいただいた。
私と母で骨を拾った。小さな身体だったのが、骨になると更に小さかった。 遺骨は、自宅に置いておくことにした。今では遺骨の周りには沢山の写真、お菓子なので華やかだ。
家にいると、愛ちゃんのいない家にとてつもない違和感がある。 しばらくそれは抜けないんだろう。思い出も多すぎて、残ったものが多すぎて家にずっといるのはまだ辛い。 溺愛していたために、沢山ある服の山。写真の山。おもちゃの山。
そんなものに囲まれる生活も、悪くないのだけれど。 ふと、この15年、とてつもなく早かったなーと感じる事が多い。
愛ちゃんのいない空間にいつかは慣れるのだろうか。それはまだ、わからない。 ― 未来。 愛ちゃんが亡くなったこと、それはとてつもない喪失感、そして寂しさは計り知れない。
けれど、出来る限りのことは精一杯やってきた。そして尽くした。 私自身に、後悔は何一つない、よく頑張ったね、偉かったね、ありがとうね、と愛ちゃんに素直に言える。 いつまでもくよくよしているわけにもいかない。
愛ちゃんを失った喪失感はあるけれども、その喪失感に押しつぶされそうになっている母が今は心配。 きっと愛ちゃんも心配しているだろう。私の課題はまだまだこれからもある。 愛ちゃんがいなくなったとしても、愛ちゃんはきっと私たちの側にいる。
永遠に家族で、永遠に忘れたりもしない。思い出が、私たちには残っている。 目を閉じれば、いつだって愛ちゃんに会える、触ることはできなくとも、思い出すことができる。 私は、愛ちゃんに出会えて、幸せだった。とても、楽しかった、素敵な日々だった。
愛ちゃんは、私たちの家族でいられて幸せでしたか? いつかそっちにいったら、その答えを聞かせてね。 最後に、天国の愛ちゃんへ。
どうせそっちでもぐうたらぐうたら、寝てばかりなんでしょう? たまには動きなさいよ。また太るわよ。 そっちでは身体は元の身体に戻るそうだね、大好きだったジャーキーもよく噛めて美味しいでしょう? 走れて楽しいでしょう?かゆいところに、手は届くし、最高だろうね。 そっちでも、あまりわがまま言わないように。まあ、可愛いから許されるだろうけどね。 待っててね、そっちに行くまで。絶対、そこに行くから。
◆デジカメで撮影した動画を、編集して繋げました。
※最後に愛ちゃんの遺体が写ります。苦手な方は注意してください。 PM23:48 再アップ完了。
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